top of page
執筆者の写真Ayako

どこかに置き忘れた大切なもの


生まれる時代を間違ったんじゃないか。

たまにそんな風に思うことがある。

SNSもネットもよく利用するし、blogだって作るくらい好きだし、

あそこの天気は?時間は?

24時間、地球の裏側のことですら調べたらいつでもわかる時代…

そんな世界をわたしは好きだ。

それは現代に生きているからこそできることだけれど、

それがこの時代に生きているからこそ持っている特権だとは誰も思わないほど、

誰にとっても自然なことだ。

わたしは毎日そんな世界に浸り続けているから、それが当たり前に感じるのも普通のことだと思う。


けれど、電車から見る景色が似たようなコンクリート色のお家だったり、

土が取り除かれ周りを埋められてしまった川を見ているととても寂しい気持ちになってしまう。

電車が出発し、視界が開けてくるころ、ちょうど夕日が沈む時間で

車内にいる人みんなが西のほうを向いていて、

キレイだなーなんて、思っているのかな…と思っていると、大多数がスマホの画面を見ている光景。

その中には西日が強く、遮光カーテンを下げる人もいたりして。

それが悪いわけでは決してないけれど、

日々の素敵な瞬間を共有できない寂しさを感じてしまう。


色んな楽しみ方がある今、わざわざ外を見て空を見上げなくたっていいのかもしれない。

それ以上の楽しみがあるのかもしれない。

けれどそうは思ってもやっぱり寂しく感じてしまうのだ。

ケータイがない時代の昔の映画。

スクリーンに映るカップルのすれ違いを

“なんでそんなことが起こるの?電話したらいいのに!!”

と、いう一言で終わらせてしまうことにも寂しさを感じる。

連絡を簡単にとれることは、本当に人との距離を近くしたのだろうか。


お正月に読んだ本「ミッテランの帽子」※1

フランスの元大統領フランソワ・ミッテランが置き忘れた帽子を中心に物語はまわりはじめる。1986年、議会総選挙で大敗したミッテランが再びその座を取り戻すまでの二年間の物語で、当時のアナログな世界が描かれている。

物を忘れてもすぐにケータイで確かめることもできない。

だから忘れた場所へすぐに取りに戻るしか確かめる術はない。

今だったら旅行中に地球の裏側で失くしたものも見つかるかもしれない。

事実SNSで呼びかけたら、一斉に広まり、持ち主が見つかった…なんてニュースもあるくらいだから。

けれど失くすから気づくことやすぐに連絡を取れないからこそ築ける人との距離感。

相手のことを思う気持ちや想像する力。

次に会うのを楽しみに待つわくわく感やそわそわする時間。

約束というものの価値。

今は約束を簡単に破棄することだって変更することだって可能だ。

わたしはとてもイライラしがちだけれど、あの時代、約束を相手が守らなかったり、何か事情があって連絡が取れなくなった場合一体どうしたんだろう?

諦める?手紙で様子を聞く?

誰かに言付けを頼み、どうして来なかったのか聞く?

それが手間とも思わない時代の人達はどんな気持ちだったんだろう。


年始から2週連続京都へ行った。

場所はどちらも出町柳周辺にある本屋さんだ。

書店員が厳選した本、本好きが本当に読みたい、面白いと思った本だけを扱っているお店だ。京都はこういったお店が多いと感じる。

もちろん大阪にないわけではない。

けれど歩いているだけで、ちょっとした小さなお店にこだわりの品がたくさんあったり、お店自体がアートのようだったり、入っただけでその雰囲気に包まれたり。なんだかとても懐かしい気持ちにさせてくれる場所が京都には多い気がするのだ。

それは神社仏閣が多いだとか景観を守るために条例で決まっているからだとかそんな理由では決してない気がする。

便利な世の中に毎日甘えているわたしだけれど、不便の中にある幸せをどんどん忘れてしまっているように感じる。

無駄なことは本当に無駄なことなんだろうか。

身近なこと、当たり前なこと、時間をかけるからこそできること。

そんなことほど、大切にしたいものだ。

※1「ミッテランの帽子」新潮社

アントワーヌ・ローラン著 吉田洋之訳

閲覧数:33回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page