結局、どれだけ文句を言っても
親しい友人に気持ちを話しても
理解を、共感を得ても
一番の答えを知っているのは自分自身だ。
ひと気のない日中のカタール。
ひたすら歩いた先にあったのは緑が広がる公園だった。
子供たちが無邪気に遊んでいる。
「無邪気というのは邪気がないってことだよ。」
昔そんなことを誰かが言っていた。
余計なことをたくさん考えてしまうときは、
外側ばかり見ず、内側を見つめなさいというサインだと言う。
こうして無邪気に子供が遊んでいる姿を見たり、自分の幼少時代のことを思い出すと
すっと力が抜けるときがある。
あの頃、目の前の好きなことに没頭して
時間のことなんて考えなかった。
ただそれが好きだからやっていた。
誰もそれを止める人はいなかった。
自由に選択して、ただ楽しいから続けて、難しいことなんて一つも考えなかった。
両親も周りの先生も誰一人強制なんてしなかった。
今、自分が迷ったり悩んだりしている原因はなんだろう。
それをやめなさいと言っているのは誰だろう。
どうしたいの?と問いかけているのは誰だろう。
なぜ文句を言ったり不満が溜まったりするんだろう。
結局何かをせき止めているのは自分ではないのか。
そして本心を心の底から引き出そうとしているのは、いつからか隠れてしまっている自分自身ではないのか。
周りは誰もノーと言わないのに
自分だけが自分に対してノーと言っている。
どうしてイエスと言ってあげられないのだろう。
公園の木の影が美しいこと。
遮るものがないと日光は直接肌にあたり、見えない光を感じることができること。
こうして子供たちが公園で遊べる環境があるということ。
自分が今こうして存在していること自体がとても不思議で素晴らしいことであること。
こうして一つ一つ何かに対して感動したり思いを巡らせたりすることができること。
自分のことを考える余裕があり、悩ましくとも自分で選べる環境にあること。
自分で選択できることがどれだけ幸せで豊かなことであるのか。
散歩をして見えた先にあったのは結局自分の内側であった。
自分で答えを知っているのに向き合わないのはなぜだろう。
自分の弱さと向き合い、内面を見つめ、自分に立ち返ること。
自分の弱さを受け入れたなら、自ずと答えは出てくるのだろう。