自分を探すために、旅に出るという話を聞いたことがある。
長旅に出る理由は一体何?とも聞かれたことがある。 自分は何者かなんて考えたらきりがないし、 旅に出たからわかるなんてことはないって昔から思ってる。
でも、旅に出ても出なくても 普段と少し違うことをしたら 気づけることってたくさんあると思う。 海外に行って、いつもとは違う刺激を受けたら もしかしたら自分の求めている答えみたいなものは見つかるかもしれない。
南米を一ヶ月周った理由は “行きたい場所に実際に行って見てみたい。” っていうそんな単純な気持ち。 だからもし普段から時間があったら、 ペルー10日間、ボリビア10日間、チリ10日間… って分けて行ったかもしれないね。 何にでも理由をつけないといけないのなら、どうしても答えられない問題にぶつかったときにしんどくなってしまう。 個人ですべての答えを表現するのは難しくって だからいろんな人と関わりあって生きていくんじゃないかな。 一人でいたら怒りの感情はほとんどわかないけれど、 感情の揺れる幅はとっても少なくなってびっくりした。 人間誰かと関わって生きていくから こんな風にいろんな感情が湧いたりするんだ。 理由なんて後付けすることもあるし 結局わからないこともある。 なんとなく見つかることもあれば、やっぱり見つからないことだってある。
普段から自分と向き合っていれば 旅の途中ふっと答えが出たりするかもしれない。 けれど何にも考えていない人が 旅をしたところで自分なんて見つからないよ。
理由があってもなくてもいいじゃない。 ぱっと説明できるほど人間はそんなに単純じゃない。 だからなんとなくでもいいから、したいことをやれることが いい時間の過ごし方だなって 長旅をし終わったあとに思ったよ。
写真を撮ることも文章を書くことも旅をすることも私は好きだ。 もしSNSがこの世からなくなってしまっても 写真も撮るし、日記帳には旅のことを綴るだろうし、行きたい場所には行くだろう。
そうして個人個人好きなことをして生きていくことはとても幸せなことだ。 けれどこうして好きなことを持って生きていけること自体がとても幸せなことだと思う。
例えそれが日常的にできなかったとしても、そうした思いがあることって
とてもありがたいことでしょう?
写真も書くことも旅することもすべては日常の延長。 特別なことにしてしまってはそれはそういう時にしかできなくなる。
忙しかったら本の中で旅をして、近場で写真を撮って
ふっと湧いた感情を言葉にしている。
そうしていたらなんとなく旅をする時間ができて
写真を撮るのもほんの少し前より上手になって
新しい言葉が自分の中に生まれて
もっともっと書きたくなったりする。
旅をすること、好きなことをすること。
特に意味がなくたっていいじゃない。
意味なんて考えていたらきりがないよ。
白黒つけなくたって、人は生きていける。