“奥に座ったほうがいいよ。”
何気なく入ったレストラン。入り口付近に座るわたしに店員さんはそう声をかけた。 よくわからなかったけれど言われた通りにした。奥は混んでいるように見えたがよく見ると隣の席は空いている。まだブエノス・アイレスに慣れておらず、少し緊張していたが、これならゆっくり食事を楽しめそうだと思った。
プルママルカでは一度しかレストランに入らなかったし、食べたものもサンドイッチだった。はじめて見るメニューに戸惑いながらも、豚肉と書かれてあったミラネサを注文した。
注文してから数分後、入り口から新しいお客さんが入ってきた。けれど少し様子が違う。どうやら物売りのようだ。そう言えば、いきなりテーブルにものを置かれたり、渡されることがあるが、封を開けてしまうと買うことになるので注意したほうがいいとガイドブックか何かに載っていた気がする。言葉がわからないのは不安だったが、誰も手をつける様子がなかったのでわたしもそれに倣うことにした。お店を一周すると次は回収作業。買う人は誰もいなかったようで彼はすぐにお店を出て行った。
しばらくするとまた新しく人が入ってきた。今度はお金や物をもらいに来た人だった。スペイン語で何を言っているのかわからなかったが、お金が欲しいことだけは理解できた。どうしたらよいのかよくわからず、結局このときも周りの人に倣って渡さなかった。インドでも同じような状況に出合ったことはあるが、路上だったのでまさかお店で起こるとは思わなかった。
こうしてレストランで過ごしていると、食事をする人以外にもあらゆる人が出入りしていることがわかった。振り返ると、ブエノス・アイレスに住む方のブログで、ひったくり現場に遭遇した話を読んだことを思い出した。それはブエノス・アイレス市内でバスに乗ったときの話だった。その話によると、入り口付近に座っていた女性がスマホを触っていたそうだ。すると信号待ちになった瞬間扉が開き、そこからひったくりがスマホを盗んでいったという。幸いそのひったくりに合った方にケガはなかったようだが、あらためて気を引き締めた瞬間だったと、確かそのようなことを書いていた。思えばブエノス・アイレスでは何度もレストランに入ったが、そのたびに関係のない方がたくさん入ってきた。たまたまひったくりに遭遇しなかっただけで、レストランの方ははそういうことも想定してわたしを奥の席にやってくれたのだろう。あれだけガイドブックやブログなどを読み警戒をしていたのにすっかり忘れていたと思った。
いつも思うが事前情報である程度の知識は必要だけれど、結局現地に行かないとその意味がわからないことは多い。例えば南米の旅前半でよく聞いたのは高山病の話。マチュピチュでは酸素を吸引している人を何度か見かけたし、ウユニでは世界一周中の方が高山病になりとても大変だったと聞いた。高山病の話は知っていたけれど実際に目にすると本当にしんどそうだったし、これが短期間の旅だったら?わたしのように一人旅だったら?と考えると恐ろしくなった。どれだけ注意喚起を促していても実際に目の当たりにしないと案外気楽に構えているものだ。
今回の治安に関してもそうだ。ブエノス・アイレスは地区によってかなりの違いがあるらしい。そんな事前情報を知っていたとしても、町歩きを楽しんでいる最中思いもよらず見知らぬ場所に迷いこむことがある。普段はそういった発見が旅を面白くするが、ひとつ路地が違うだけで雰囲気ががらっと変わるブエノス・アイレスでは少し怖くなったときがあった。
結局は事前情報は頭の中に入れつつも現地の空気を読みながら様子をうかがうことは改めて大事なことだと知った。
色々な人を見ているうちに注文したミラネサが運ばれてきた。 言わば、日本で言うカツレツ。 わたしの大好きなカツレツをブエノス・アイレスで食べられるなんてこの時ばかりは本当に嬉しかった。そしてこの後のブエノス・アイレス滞在中の定番ごはんはこのミラネサになった。
アルゼンチンの牛肉消費量が世界一ということは知っていたが、これほどまでに食事を楽しむ文化のある場所だとはここに来るまで実感がなかった。ワインを飲みながらお肉を食べ、タンゴを見る。家族や友達との楽しいひととき。とても豊かな時間だと思った。
ここ、ブエノスアイレスではほとんどのお金を食事に費やしたと言っても過言ではない。イースター島でおいしいごはんを食べた以外なかなか食べれなかったおいしいごはん。そしてごはんを満足に食べられることがどれだけ幸せなことか、ありきたりな言葉でしか表現できないが本当にそう実感したのだ。
毎度楽しそうにテーブルを囲んでいる人達のおかげで、近くで一人食事をするわたしもハッピーな気持ちになった。