ウユニ駅を21時20分に出発する予定だった列車は一時間を過ぎてもなかなか出発しない。
やっと出発してもたびたび停まる列車の車内では今まで聞いたことがないいびきが鳴り響いていた。鳴り響く、少し大げさな表現だが日本だったら考えられないほどの大きな音だったのではじめはなかなかの驚きだった。車両点検をしているのか、列車が停まるたびに懐中電灯を持った人たちが線路沿いを通り過ぎていく。少し不安だった列車もほとんどの人が寝ているのでいつのまにか気にしなくなり、寝てしまっていた。
朝6時前に目が覚めたが、よく考えると到着時間であるこの時間になっても一向に着く気配がない。さすがに心配になりキョロキョロあたりを見回してみたが、誰も気にしている人はいない様子だった。
雨季の中走る列車は土砂崩れに遭遇することもあるというが、実際窓から見える景色はどんよりとしていた。夜中に走っていたときは真っ暗で何も見えなかったけれど、朝気づいたときには山間のような場所を列車がひたすら走り抜けていた。わたしが降りる駅はビジャソンというアルゼンチンとの国境沿いの町だ。いよいよ地図も何もない場所に到着するので不安ではあったが同時にわくわくもした。
行きたい場所、挑戦してみたいこと。たくさんある中で自分にとってどんな選択が一番なんて正直わからないと思う。安全を選んで気持ちが落ち着くこともあれば、挑戦してみることでやってみてよかったと思うこともある。逆に無難なほうを選んで幸いだったなんてオチもあるくらいだから、そんな色んな思いがよぎったわたしは出発前までこの夜行列車のルートだけはウユニ出発ギリギリまで考えようと思っていた。実際、ウユニでもしも見たい景色が見れなかったら延泊しようと思っていたし、ウユニの滞在を延ばすことのほうがむしろ良い案な気もしていた。けれど結局ウユニでは見たい景色は思いの他順調に見ることができ、4泊5日以上いる必要が自分の中でなくなってしまい。むしろ、この一番はじめの直感のまま進むほうを選びたくなった。
そんな次に行きたかった場所はアルゼンチンにあるサリーナス・グランデスという塩湖だった。もともとチリのアタカマ塩湖に向かおうと計画していたが、このままチリへ行ってもガイドブックでよく見かけるルートだと思ったわたしはなぜだか違う場所を目指したくなった。チリに行くにも長距離の移動になることに変わりなかったし、せっかくだったら気になっていたアルゼンチンの塩湖も見てみたい、そんな気持ちだったように思う。直前に行くか決めようと思っていたくらいだったから軽い気持ちだったように思うけれど、実際のこの道のりはこの旅の中でもなかなか厳しく、けれど一番旅の面白さみたいなものを実感した場所でもあった。
結局、ビジャソンへは予定時刻を大幅に過ぎお昼前に到着した。約14時間も列車に乗っていたと思うとなかなかの長旅だけれど意外と疲れなかった自分にびっくりした。しっかりと番号がつけられた自分の荷物を貨物車から降ろすと、いよいよアルゼンチンとの国境へ向かった。
思い通りにいかないアルゼンチン。
そう、アルゼンチンは私の予想に反して思い通りにはいかない国だった。 アルゼンチンに入ってからはそれまでの二カ国とは環境が一変したからだ。ペルー、ボリビアでは英語が通じたのに全然通じない。入国審査もスペイン語。バスの切符売り場もスペイン語。ホテルの方も英語は話せないし、お店の人も話せない。ドルも全然使えない、カードも使えない。バスは時間通りに来ないし挙げたらきりがないけれど本当に困ったとしかいいようがない状態が続いた。
“ここはスペイン語を話す国なのに、あなたは喋れないの?” 正直そんな風に言われれば、「そうです。その通りです。すみません。」としか言えなかったけれど、謝ったところですぐには話せないし、何より困ったのはスペイン語をどれだけ真似しても全く通じなかったこと。結局文字を見せてなんとか通じたが、アルゼンチンに入ってから苦労したのは言葉だったように思う。
というのも、わたしがこのとき向かったのはプルママルカというとても小さな町だった。サリーナス・グランデスへ行くにはサルタというもう少し大きな町から行く人が多いとガイドブックで目にした。けれど、サルタは国境沿いからプルママルカよりも遠く、加えてその次に向かうチリからも遠くなってしまう。塩湖に行くだけなら、サルタまで行く必要性を全く感じなかったので、その手前のプルママルカに行くことに決めた。
けれどこれがなかなかつらかった。 ボリビアの国境を越える前に両替を済ませたわたしはアルゼンチン側のバスターミナルでチケットを買い、バスに乗り込んだ。途中の検問などを終え約4時間するとわたしが目指していたプルママルカに到着したのだが、なんと降ろされたのはなんにもないただの山の谷間だった。見渡す限りの山々。これが昼間だったら絶景と呼べたかもしれない。けれどウユニからの夜行列車が大幅に遅れたせいで、この時はすでに薄暗い19時頃だった。谷間に降ろされるなんて想像していなかったわたしはかなり怖くなってしまった。まだ入って4時間ほどしか経っていない国で一人で、しかも谷間で薄暗い中どうしたらいいかわからない状態は今思い出してもいい気持ちがしない。 けれど、この後感じたのはわたしはとてもラッキーだったということ。と、いうのもこの後のプルママルカ滞在中はほとんどの人が英語を理解できなかった。けれど、このバスを降りたときに声をかけた男性は英語がとても流暢でわたしがプルママルカへ行きたいと言うと、
“この坂道を3キロ行けば着くけれど、その荷物だったらしんどいからタクシーかバスに乗ったほうがいいよ。そこがバス停だから待っていたらいずれ来るから大丈夫。”と言ってくれたのだ。 彼はそのまま3キロあるらしい坂道を友達らしき人達と歩いていったけれど、わたしは彼の言葉を信じてひたすら待つことにした。そう、ひたすら、どんどん暗くなる山に囲まれた谷間で待った。あのときの30分ほど長いと感じたことはない。あれほど怖くて本当に大丈夫かと心配したこともこの先あるかわからない。それくらい不安で仕方がなかった。 待っているわたしの隣には中高生らしき若い女の子が座っており、その隣にはおばあさん。さらにその隣には中学生くらいの男の子ふたりが立っていた。何を喋っているのか、ここで何をしているのかはさっぱりわからなかったけれど、このときはこの4人がみんなタクシーかバスを待っている、そう信じるしか選択がなかった。
30分が経ったころ、いよいよ本当に不安になったわたしは隣の女の子に話しかけてみた。何を言っているかわからなかったけれど、プルママルカという言葉には反応してくれたので、おそらく大丈夫だろうと少し不安が和らいだ。そこから5分もしないうちに女の子が手を挙げながら立ち上がったかと思うと、見た目はいたって普通の車が走ってきて、女の子に気づくとすぐに止まった。そこからはその場にいた全員が立ち上がり、いきおいよく車のほうへ駆け寄ると、さっき話しかけた女の子がわたしのことも話してくれたようで、うしろのトランクをあけて荷物を入れる段取りまでしてくれていた。このときの優しい気持ちがどれだけわたしの気持ちを安心させてくれたか、今でも想像しただけで涙が出てきそうだ。 助手席にはおばあさん、後ろの席には奥から女の子、わたしの順に座った。その時、男の子一人が座るスペースがないと気が付いた。しかし二人は慣れているのか気にするそぶりも見せず簡単に乗り込み、一番最後に乗った男の子は前屈姿勢で立ちながら出発した。3キロ。きっとこの数字は正しかったと思う。タクシーらしき車はあっという間にプルママルカに到着した。タクシー代も女の子が10ペソよ、と自分が払う分と一緒に渡してくれた。自分があんな中高生だったらあれほどの気遣いができただろうか。いや、きっとできなかっただろう。異国から来た人を助ける余裕なんて、学生の時にあった気がまったくしないからだ。プルママルカで起きた一番目の洗礼はなかなかのものだったけれど、このときのことなんてまだまだ序の口だった。